このサイトの視点

はじめに

e-Akademeia.comは、一つの視点を提供することを目的としています。
もちろん、その視点が正しいという保証はありません。
大切なのは、その視点をもとに、自分で感じ考えること。
そして、自分なりの視点を持つことです。

視点のエッセンスは、このカテゴリーに書いていくつもりですが、
旧サイトのコラムや掲示板なども参考になるかもしれません。
ただし、様々な理由で埋もれているものが多くあるので、
検索をうまく使って探してみてください。

また、これから「~を仮定しない」という表現が多く出てきますが、
あくまで“仮定しない”だけであり、“否定”ではないことを断っておきます。

神について

このサイトでは、神の存在は仮定しません。
ここでいう神とは、正確には“人格を持った神”のことを指します。
すなわち、何らかの思惟をもって行為する実体です。

逆説的に、“人格を持たない神”は肯定します。
自然信仰の対象となる八百万の神々、あるいは妖怪、
すなわち、その実体が自然の法則であるものです。

しかし、いかなる神であったとしても、その神に対する信仰は肯定します。

生と死の自覚

このサイトでは、輪廻転生は仮定しません。
同じ理由で、死後の世界、天国や地獄、心霊なども仮定しません。
人生は、この一度きりであり、すべてを受け入れることを出発点とします。

遅かれ早かれ、誰もが死にます。
それは、形あるものすべて、この地球も宇宙も例外ではありません。
富や名声も、歴史に名を刻んだとしても、それは永遠ではない。
しかし、だからこそ、その一瞬にも等しい時間の中で、
どう生きるのかが問題になってくるのです。

絶対的真理の否定

このサイトでは、真理はありえないものとします。
これは、仮定しないのではなく、完全なる否定です。

人間の倫理観は、時代や社会、文化に大きく依存します。
ある人にとっての善が、ある人にとっての悪であることは、
全くめずらしいことではありません。

極端な例をいくつか挙げれば、
・動物実験の問題
・人工妊娠中絶の問題
・末期医療の問題
など、生命に関わるものがあります。

動物実験をせず、新薬や治療法を開発するのは不可能です。
また、経済的な理由だけでなく、
胎児が生まれても生きていけないと分かっていたら?
母体に命の危険があったら? どうするのか。
さらに、苦しみもがき、助かる見込みのない患者が死を望んだらどうするのか。

もっと身近な例は、芸術やスポーツなど、創造的・独創的・個性的なものです。
これらは、真理が偏った単なる選択器でしかないことを明示しています。

宗教について

宗教は、やめることが自由であり、
信者でない人に害を与えない場合にのみ認めます。

ある人が、宗教に入信することにより、 
心の平穏を得て、自らの人生に意味を見いだせるならば、
それはそれで幸せなことであり、
それを非難することは誰にもできません。

しかし、テロ行為は論外としても、強引な勧誘や、
元信者に対する誹謗中傷はすべきではありません。
そこには、カルト的なマインドコントロールが働いているからです。
自分の信じる宗教が本当の宗教で、他の宗教は邪教、
教祖・教義は絶対であり、社会の方が間違っている。
宗教戦争の歴史をみれば、そこにはもはや
宗教本来の姿が失われていることが分かるでしょう。

自由と平等

誰もが自由であり、平等である。
そういうと、必ず反論する人たちがいます。
けれど、それは自由と平等を、
金や権力でしか考えられない人たちです。

しかも、その金や権力でさえ、
本当に欲するのならば手に入るのです。

自由と平等は、それを知っている人を決して裏切りません。
裏切るとすれば、自由と平等を信じようとしない私たち自身です。
そこにある可能性を、自ら断ち切っているのです。

本当に信じるのならば、時代社会さえ大きく変えることができます。
よく対比に出されるアドルフ・ヒトラーとマハトマ・ガンジーが良い例でしょう。
彼らは特別な人間なのでしょうか。いいえ、違います。
それは、彼らの少年時代を見れば明らかです。

私たちが自由と平等を生きようとするとき、
知識や経験、血のにじむような努力が必要なこともあります。
しかし、どれだけ挫折しようとも、最後に成し遂げることができれば、
それは間違いなく成功なのです。
いうまでもなく、挫折や失敗であきらめたら、それで終わりです。

絶望

動物や昆虫の殺生はいけないという人が、
植物や細菌の殺生を暗黙的に認めているように、
人間社会に満ちる善と悪は、人間が見出したもの。
絶望とは、人間が物事に見出してきた意味が失われること。
そして、その究極は、すべての意味が失われること。

例えば次の瞬間、何らかの理由で地球が滅亡しても、
それは宇宙の塵のような星が一つ消えただけ。

意味という縛りがなくなれば、
すべては無意味であり、すべては等しい。

絶望からの出発

何のために生きるのか。
この自らの存在に対する問いは、
人類の永遠のテーマであり続けるだろう。

なぜなら、全ては無から始まったのであり、
やがては無に帰る定めだからだ。
我々が生・死と呼ぶ現象もしかり、
この宇宙空間と時間の発生・消滅もしかり。
無と無の狭間に生きる我々にとって、
あるのは常に今でしかない。

今を基点に過去と未来を見つめ、
あらゆる現象を見つめ、
そこに意味を見出す作業のみが、
我々の存在を確固たるものにする。

だから、ひとたび意味を見失うと、
全てが無意味であることに絶望する。
そして、そのまま命を絶つ人の、
人格が崩壊する人のいかに多いことか。

我々が持っていると思い込んでいる自由意志も、
水が高きから低きに流れるような、
神経細胞間の複雑な電流の流れに過ぎない。
確かに、これは絶望に値する。

けれども、例え完全な自由は無いとしても、
我々が不自由であることに気付かない程度の自由はある。
ここに、人を絶望から救う唯一の原動力がある。

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